2019/02/28
3. Zenzenzense (What is your name?)
翻訳を通し、日英語の比較をするのは楽しい。
そこから、ことばの本質が見えてくる場合がある。
今回は映画『君の名は。』の主題歌である「前前前世」をとりあげる。

この主題歌を歌うRADWIMPSのヴォーカルの野田さんは帰国子女ということもあり、自分で英語歌詞をつくり、英語版を歌っている。
その歌詞翻訳が絶妙だ。
(何といっても、一番歌詞の意味を分かっている本人の英訳だ。)
今回はこの部分に注目した。
「君の前前前世から僕は 君を探しはじめたよ
そのぶきっちょな笑い方をめがけて やってきたんだよ
君が全然全部なくなって チリヂリになったって」
とくに、この中の「そのぶきっちょな笑い方をめがけて やってきたんだよ」という歌詞は、どう英訳するのだろうか?
実は、このように訳されている。

どのように訳されたかを明確にするために、日本語のオリジナルと英語歌詞の日本語訳を比較してみよう。
① そのぶきっちょな笑い方をめがけてやってきたんだよ [オリジナルの意味]
↓
② 僕は君の無邪気な笑い声についていったが、それは僕を正しい方向に導いてくれた。 [英訳の意味]
↓
I followed the sound of your innocent laughter and it guided me in the right way.
面白いことに、日英語で「移動の方向」が逆になっている。
日本語のオリジナルでは「やってきた (=come)」となっているが、英語歌詞の方は「ついて行った(=go)」となっている。
日本語歌詞はcome (来る)で、英語歌詞はgo (行く)
このように、方向性が逆でも同じ意味を表せるのはなぜだろうか?
その「からくり」は「どの位置から見るか」という視点の違いにある。
相手からみれば「来る」だが、自分からみれば「行く」となる。

このように、同じ出来事でも視点を変えれば言い方が違ってくる例はほかにも多くある。
おじいちゃんが孫にお金をあげた
おじいちゃんが孫にお金をくれた

今回とりあげた歌詞の英訳は、この「視点の違い」をうまく使っているといえる。
(to be continued)
******「補足:歌詞翻訳」 *******
「前前前世」の英語版は単に英訳しただけでなく、同じリズムで歌えるようにしているのがすごい。
実際に確かめてみたい人はこちら ↓
https://drive.google.com/file/d/1ymE7AV7XHKJxtooWc0onBf87HyD4C_AI/view?usp=sharing
実は、歌詞翻訳(歌えるように訳す)場合、英語の方が日本語よりも文字数(語数)が多くなる。その理由は、音声的な特徴の違いによるが、この点については、改めて考察することにする。
翻訳を通し、日英語の比較をするのは楽しい。
そこから、ことばの本質が見えてくる場合がある。
今回は映画『君の名は。』の主題歌である「前前前世」をとりあげる。
この主題歌を歌うRADWIMPSのヴォーカルの野田さんは帰国子女ということもあり、自分で英語歌詞をつくり、英語版を歌っている。
その歌詞翻訳が絶妙だ。
(何といっても、一番歌詞の意味を分かっている本人の英訳だ。)
今回はこの部分に注目した。
「君の前前前世から僕は 君を探しはじめたよ
そのぶきっちょな笑い方をめがけて やってきたんだよ
君が全然全部なくなって チリヂリになったって」
とくに、この中の「そのぶきっちょな笑い方をめがけて やってきたんだよ」という歌詞は、どう英訳するのだろうか?
実は、このように訳されている。

どのように訳されたかを明確にするために、日本語のオリジナルと英語歌詞の日本語訳を比較してみよう。
① そのぶきっちょな笑い方をめがけてやってきたんだよ [オリジナルの意味]
↓
② 僕は君の無邪気な笑い声についていったが、それは僕を正しい方向に導いてくれた。 [英訳の意味]
↓
I followed the sound of your innocent laughter and it guided me in the right way.
面白いことに、日英語で「移動の方向」が逆になっている。
日本語のオリジナルでは「やってきた (=come)」となっているが、英語歌詞の方は「ついて行った(=go)」となっている。
日本語歌詞はcome (来る)で、英語歌詞はgo (行く)
このように、方向性が逆でも同じ意味を表せるのはなぜだろうか?
その「からくり」は「どの位置から見るか」という視点の違いにある。
相手からみれば「来る」だが、自分からみれば「行く」となる。
このように、同じ出来事でも視点を変えれば言い方が違ってくる例はほかにも多くある。
おじいちゃんが孫にお金をあげた
おじいちゃんが孫にお金をくれた
今回とりあげた歌詞の英訳は、この「視点の違い」をうまく使っているといえる。
(to be continued)
******「補足:歌詞翻訳」 *******
「前前前世」の英語版は単に英訳しただけでなく、同じリズムで歌えるようにしているのがすごい。
実際に確かめてみたい人はこちら ↓
https://drive.google.com/file/d/1ymE7AV7XHKJxtooWc0onBf87HyD4C_AI/view?usp=sharing
実は、歌詞翻訳(歌えるように訳す)場合、英語の方が日本語よりも文字数(語数)が多くなる。その理由は、音声的な特徴の違いによるが、この点については、改めて考察することにする。
2019/02/26
Introduction
私の研究室はN館(通称) のベーカーストリート(自称)の230Bにある。

ここに、数多くのことばの謎の解明依頼がくるが、未解決の面白いトピックが山ほどある。この章では、そのトピックを紹介していく。
まだ、考察中であるため、「短編」のような形で徒然なるままに書いていく。
ことばの謎を一緒に解いてくれる「助手」は、今のところワトソン君だけである。私のような「変人」には近づかないからだ。
つまり、深刻な人手不足なのだ。
そういうわけで、興味がある謎があれば、一緒に考えてもらいたい。
1. if / though
問題: if とthoughが同じ意味を表す場合があるのはなぜ?
Ifは「条件」を表し、thoughは「逆接」を表す。
たとえば、If you are rich, … は「あなたがお金もちなら」という「条件」を表すが、
Though you are rich, … は「あなたはお金もちだけど」という「逆接」を表す。
このように、ifとthoughは意味が違う。
しかし、「この2つが同じ意味を表す場合がある」のだが、思いつくだろうか?

答えは、evenがつく時だ。
even if = even though = たとえ~でも
Even if/though you don’t like it, you must do it. (たとえいやでも、やらねばならぬ)
なぜ、evenがつくとif (条件)とthough (逆接)が同じ仲間にあるのだろうか?
さらに面白いことに、同じ現象は日本語にもみられる。
おわかりだろうか?
それは、「も」だ。
・全力で走っても、間に合わないだろう。 [ も=条件]
(=もし全力で走ったとしても、)
・全力で走っても、間に合わなかった。 [ も=逆接 ]
(=全力で走ったけど、)
上の例にあるように、日本語の「も」は「条件」も「逆接」も表す。
なぜ、異なった意味を表す「条件」と「逆接」が関係する場合があるのだろうか?
この謎を解くには、「条件」と「逆接」という意味をさらに深い次元で捉える必要がありそうだ。
“Vision is the art of seeing the invisible.” (Swift)
(洞察力とは、見えないものを見る技のことである -スウィフト (作家)-)
(to be continued)
<関連資料:『実践ロイヤル英文法』>

私の研究室はN館(通称) のベーカーストリート(自称)の230Bにある。
ここに、数多くのことばの謎の解明依頼がくるが、未解決の面白いトピックが山ほどある。この章では、そのトピックを紹介していく。
まだ、考察中であるため、「短編」のような形で徒然なるままに書いていく。
ことばの謎を一緒に解いてくれる「助手」は、今のところワトソン君だけである。私のような「変人」には近づかないからだ。
つまり、深刻な人手不足なのだ。
そういうわけで、興味がある謎があれば、一緒に考えてもらいたい。
1. if / though
問題: if とthoughが同じ意味を表す場合があるのはなぜ?
Ifは「条件」を表し、thoughは「逆接」を表す。
たとえば、If you are rich, … は「あなたがお金もちなら」という「条件」を表すが、
Though you are rich, … は「あなたはお金もちだけど」という「逆接」を表す。
このように、ifとthoughは意味が違う。
しかし、「この2つが同じ意味を表す場合がある」のだが、思いつくだろうか?
答えは、evenがつく時だ。
even if = even though = たとえ~でも
Even if/though you don’t like it, you must do it. (たとえいやでも、やらねばならぬ)
なぜ、evenがつくとif (条件)とthough (逆接)が同じ仲間にあるのだろうか?
さらに面白いことに、同じ現象は日本語にもみられる。
おわかりだろうか?
それは、「も」だ。
・全力で走っても、間に合わないだろう。 [ も=条件]
(=もし全力で走ったとしても、)
・全力で走っても、間に合わなかった。 [ も=逆接 ]
(=全力で走ったけど、)
上の例にあるように、日本語の「も」は「条件」も「逆接」も表す。
なぜ、異なった意味を表す「条件」と「逆接」が関係する場合があるのだろうか?
この謎を解くには、「条件」と「逆接」という意味をさらに深い次元で捉える必要がありそうだ。
“Vision is the art of seeing the invisible.” (Swift)
(洞察力とは、見えないものを見る技のことである -スウィフト (作家)-)
(to be continued)
<関連資料:『実践ロイヤル英文法』>

2. Modernized proverbs
こんなことわざがある。
「冗談とフンドシはまたにしろ」
なぞかけ的な、おやじギャグ的なことわざである。
「冗談はまたにしろ(=もうやめてくれ)」
「フンドシは股(また)にしろ(=股につけろ)」
ここで、1つの疑問が起こる。
今の子どもたちに「フンドシ」が分かるのだろうか?
子どもだけでなく、今の若い人たちは「フンドシ」を知っているのだろうか?
もし、「フンドシ」を知らなければ、上のことわざは「意味不明」となる。
ことわざはある意味、「先人たちの知恵」である。
であるがゆえに、昔は問題なく通じていたことわざが、今となってはほとんど通じないということはよくある。
今回はここに目をつけた本を紹介する。
『勝手に現代風にアレンジしたことわざ辞典』である。

現代風だけあって、「あー、わかる、わかる!」ってなる。
ちなみに、自分のお気に入りはこれだ。

「李下に冠を正さず」の現代版であるが、確かにコンビニにフルフェイスのヘルメットで入ったら、「通報してください」と言ってるのと同じだ。

一方、「李下に冠を正さず」のほうは、国語の時間に漢文でも習わない限り、何のことか意味不明であろう(最近は「グーグル先生」に聞けばなんでも分かるのだろうが)。
ちなみに、携帯関係のことわざがやはり多いので、自分が選ぶ「携帯ことわざ」トップ3を紹介しよう。本来のことわざは何かを当ててみてほしい(テレビ番組的に3位から発表)
3.スマホに水 [ヒント:スマホが水没したら…]
2.人に聞いてもネット検索 [ヒント:今は人に聞かずにネット検索かも…]
1.携帯隠してツイート隠さず [ヒント:文字でつぶやくということは…]
答えと解説はこちら ↓
https://drive.google.com/file/d/1kDvWv7sYbOuOeoZcZ1wmEwwENl5lYfM3/view?usp=sharing
そもそも、なぜ「ことわざ」なんかあるのだろうか?
「コンビニにフルフェイス」も「李下に冠を正さず」も言いたいことは、「誤解を招くような行動はするな」ということである。
だったら、ダイレクトにそう伝えたほうが、誤解も生じることなく、相手に理解されるはずだ。
なぜ、ダイレクトに言えることに対して、わざわざ「ことわざ」なんかが存在するのだろうか?
その答えは「丁寧さ(politeness)」にある。
「ことわざ」というのは「教訓」である。
先ほどの「コンビニにフルフェイス」も「~のようなことはするな」という「教訓」を述べている。
「教訓」というのは「~すべきだ/~すべきではない」という相手への忠告を表すが、ダイレクトに「~しろ/~するな」というと、相手に反感を買うだろう。
でも、「ことわざ」を使うことで、やんわりと相手を諭すことができる。
たとえば、「誤解を招くようなことはするな!」って言われるとムッとする。
でも、「それは、「コンビニにフルフェイス」だぞ!」 っていわれると、具体例を示されているだけなので、忠告という感じがしない。しかも、具体的な状況が映像として浮かぶだけに、「なんてバカなことをしてるんだ!」と、ハッと我に返りそうだ。
つまり、「ことわざ」を用いると、相手にダイレクトに忠告するのを避け、具体例を示しながらやんわりと助言することができる。
ということで、今回の仮説はこれ ↓ だ。

コミュニケーションは「正論よりも共感」が大事ということだろう。
“People don’t care how much you know until they know how much you care.”
[英語の格言]
(知識よりもまず気配り(=人々はあなたがどれだけ気を遣っているかを知るまで、あなたがどれだけ知っているかを気にしない)
(to be continued)
******「現代風アレンジことわざ」募集 **********
興味があれば、「コメント」に気楽に送ってください。
自分の作品: おばあちゃんから line [人は見かけによらぬもの]
こんなことわざがある。
「冗談とフンドシはまたにしろ」
なぞかけ的な、おやじギャグ的なことわざである。
「冗談はまたにしろ(=もうやめてくれ)」
「フンドシは股(また)にしろ(=股につけろ)」
ここで、1つの疑問が起こる。
今の子どもたちに「フンドシ」が分かるのだろうか?
子どもだけでなく、今の若い人たちは「フンドシ」を知っているのだろうか?
もし、「フンドシ」を知らなければ、上のことわざは「意味不明」となる。
ことわざはある意味、「先人たちの知恵」である。
であるがゆえに、昔は問題なく通じていたことわざが、今となってはほとんど通じないということはよくある。
今回はここに目をつけた本を紹介する。
『勝手に現代風にアレンジしたことわざ辞典』である。

現代風だけあって、「あー、わかる、わかる!」ってなる。
ちなみに、自分のお気に入りはこれだ。

「李下に冠を正さず」の現代版であるが、確かにコンビニにフルフェイスのヘルメットで入ったら、「通報してください」と言ってるのと同じだ。
一方、「李下に冠を正さず」のほうは、国語の時間に漢文でも習わない限り、何のことか意味不明であろう(最近は「グーグル先生」に聞けばなんでも分かるのだろうが)。
ちなみに、携帯関係のことわざがやはり多いので、自分が選ぶ「携帯ことわざ」トップ3を紹介しよう。本来のことわざは何かを当ててみてほしい(テレビ番組的に3位から発表)
3.スマホに水 [ヒント:スマホが水没したら…]
2.人に聞いてもネット検索 [ヒント:今は人に聞かずにネット検索かも…]
1.携帯隠してツイート隠さず [ヒント:文字でつぶやくということは…]
答えと解説はこちら ↓
https://drive.google.com/file/d/1kDvWv7sYbOuOeoZcZ1wmEwwENl5lYfM3/view?usp=sharing
そもそも、なぜ「ことわざ」なんかあるのだろうか?
「コンビニにフルフェイス」も「李下に冠を正さず」も言いたいことは、「誤解を招くような行動はするな」ということである。
だったら、ダイレクトにそう伝えたほうが、誤解も生じることなく、相手に理解されるはずだ。
なぜ、ダイレクトに言えることに対して、わざわざ「ことわざ」なんかが存在するのだろうか?
その答えは「丁寧さ(politeness)」にある。
「ことわざ」というのは「教訓」である。
先ほどの「コンビニにフルフェイス」も「~のようなことはするな」という「教訓」を述べている。
「教訓」というのは「~すべきだ/~すべきではない」という相手への忠告を表すが、ダイレクトに「~しろ/~するな」というと、相手に反感を買うだろう。
でも、「ことわざ」を使うことで、やんわりと相手を諭すことができる。
たとえば、「誤解を招くようなことはするな!」って言われるとムッとする。
でも、「それは、「コンビニにフルフェイス」だぞ!」 っていわれると、具体例を示されているだけなので、忠告という感じがしない。しかも、具体的な状況が映像として浮かぶだけに、「なんてバカなことをしてるんだ!」と、ハッと我に返りそうだ。
つまり、「ことわざ」を用いると、相手にダイレクトに忠告するのを避け、具体例を示しながらやんわりと助言することができる。
ということで、今回の仮説はこれ ↓ だ。
コミュニケーションは「正論よりも共感」が大事ということだろう。
“People don’t care how much you know until they know how much you care.”
[英語の格言]
(知識よりもまず気配り(=人々はあなたがどれだけ気を遣っているかを知るまで、あなたがどれだけ知っているかを気にしない)
(to be continued)
******「現代風アレンジことわざ」募集 **********
興味があれば、「コメント」に気楽に送ってください。
自分の作品: おばあちゃんから line [人は見かけによらぬもの]
2019/02/24
<序>
目に「錯覚」があるように、耳にも「錯覚」がある(「錯聴」というべきか)。
それが「空耳」である。
手前みそ(自家製のみそのことではない)になるが、私ほど「空耳」を研究してきた人はいないと思う (約15年以上…)。
シャーロックは「薬中毒」であったが、自分は「空耳中毒」である。
「空耳」という「音」の研究に飽き足らず、これまで自家製のみそではなく「空耳映像」も数多く作ってきた(データとしては、300を超える)。

これも、自分の中毒に付き合ってくれた数多くの「空耳サークル」の人たち(実際はかなり少数のマニア)のおかげだ。
この数多くの人たち(実際はかなり少数のオタク)の努力に応えるためにも、このThe valley of ear (耳の谷間(=空耳))の章では、空耳をもとに音の研究をしていくことにする。
1. Deep Purple (Burn)
英語と日本語の基本的な音の違いをざっくり表すと、次のようになる。
英語: 子ども(=子音)だけでもOK
日本語: 原則、子ども(=子音)は母親(=母音) と一緒。
母音 と子音というのは、ざっくりいうとこうなる。
母音: 「あ(a)、い(i)、う(u)、え(e)、お(o)」/子音:それ以外
たとえば、strikeと外来語の「ストライク」の発音を比べてみると、よくわかる。
strike - 発音 [straik]
ストライク - 発音 [sutoraiku]
まず、最初の部分に注目しよう。
英語のstrike: [st]のように子ども(=子音)どうしでつるんでいる。
日本語の「ストライク」: [suto]のように母親 (=母音(uとo))が付き添っている。
次に、最後の音に注目しよう。
英語のstrike: [k]のように子ども(=子音)のみで終わっている。
日本語の「ストライク」: [ku]のように母親 (=母音(u))が付き添っている。
とくに、英語は最後が子音で終わることが多いが、子音は母音を伴わないと、ほとんで「かすれた音」にしかならない。つまり、ほとんど「聞こえない」。
そのため、このような「空耳」が可能になる (Deep PurpleのBurn (紫の炎)より)。

とくに、you could not に注目してほしい。
You could not - 発音 [yu kud nat]
ここで、dとtがほとんど聞こえないため、実際にはこんな感じに聞こえる。
You could not - 発音 [yu kud nat] =「ゆくな(行くな)」
実際に確かめてみたい人はこちら ↓
https://www.amazon.co.jp/clouddrive/share/xQFVckNhDedZPDjQBABZWNmd7Twtg4xA5Ex2I91Q4gL
このように、英語では子音で終わるという特徴があり、この特徴のために、英語にはさまざまな音の変化が生じる。
この点については、改めて述べることにしよう。
(to be continued)
******* <補足コメント>*********
歴代の空耳サークルの部長:
たっくん(初代部長)、JJ福井(初代副部長)、まなやっこ(初代&ラスト マネージャー)
オカエルくん(2代目部長)、B藤くん(3代目部長)
ちなみに、どの代も部員はゼロであり、2代目と3代目は部長のみであった。
そのため、「空耳役者」は土下座して出演してもらった人たちがメインとなっている。
目に「錯覚」があるように、耳にも「錯覚」がある(「錯聴」というべきか)。
それが「空耳」である。
手前みそ(自家製のみそのことではない)になるが、私ほど「空耳」を研究してきた人はいないと思う (約15年以上…)。
シャーロックは「薬中毒」であったが、自分は「空耳中毒」である。
「空耳」という「音」の研究に飽き足らず、これまで自家製のみそではなく「空耳映像」も数多く作ってきた(データとしては、300を超える)。
これも、自分の中毒に付き合ってくれた数多くの「空耳サークル」の人たち(実際はかなり少数のマニア)のおかげだ。
この数多くの人たち(実際はかなり少数のオタク)の努力に応えるためにも、このThe valley of ear (耳の谷間(=空耳))の章では、空耳をもとに音の研究をしていくことにする。
1. Deep Purple (Burn)
英語と日本語の基本的な音の違いをざっくり表すと、次のようになる。
英語: 子ども(=子音)だけでもOK
日本語: 原則、子ども(=子音)は母親(=母音) と一緒。
母音 と子音というのは、ざっくりいうとこうなる。
母音: 「あ(a)、い(i)、う(u)、え(e)、お(o)」/子音:それ以外
たとえば、strikeと外来語の「ストライク」の発音を比べてみると、よくわかる。
strike - 発音 [straik]
ストライク - 発音 [sutoraiku]
まず、最初の部分に注目しよう。
英語のstrike: [st]のように子ども(=子音)どうしでつるんでいる。
日本語の「ストライク」: [suto]のように母親 (=母音(uとo))が付き添っている。
次に、最後の音に注目しよう。
英語のstrike: [k]のように子ども(=子音)のみで終わっている。
日本語の「ストライク」: [ku]のように母親 (=母音(u))が付き添っている。
とくに、英語は最後が子音で終わることが多いが、子音は母音を伴わないと、ほとんで「かすれた音」にしかならない。つまり、ほとんど「聞こえない」。
そのため、このような「空耳」が可能になる (Deep PurpleのBurn (紫の炎)より)。

とくに、you could not に注目してほしい。
You could not - 発音 [yu kud nat]
ここで、dとtがほとんど聞こえないため、実際にはこんな感じに聞こえる。
You could not - 発音 [yu ku
実際に確かめてみたい人はこちら ↓
https://www.amazon.co.jp/clouddrive/share/xQFVckNhDedZPDjQBABZWNmd7Twtg4xA5Ex2I91Q4gL
このように、英語では子音で終わるという特徴があり、この特徴のために、英語にはさまざまな音の変化が生じる。
この点については、改めて述べることにしよう。
(to be continued)
******* <補足コメント>*********
歴代の空耳サークルの部長:
たっくん(初代部長)、JJ福井(初代副部長)、まなやっこ(初代&ラスト マネージャー)
オカエルくん(2代目部長)、B藤くん(3代目部長)
ちなみに、どの代も部員はゼロであり、2代目と3代目は部長のみであった。
そのため、「空耳役者」は土下座して出演してもらった人たちがメインとなっている。
2019/02/22
3. Where is ‘front’?
ロペ問題: なぜ、「手を染める」のに、「足を洗う」のか?
仮説: 手はstartを表し、足はgoalを表す

この「ロペ問題」の考察をさらに続けていたところ、研究室にワトソン君がやってきた。
彼のフルネームは「ルネ・ワトソン」である(エマ・ワトソンではない)。
「スケロック先生、英語では逆ですよ」(少しにやけている)
「というと・・・?」
「「手を染める」を英語で調べてみたら、"get one's feet wet" と出てきました。
つまり、英語では「足(feet)を濡らす」ことが「始まり」を意味します。」 (少しドヤ顔)
「日英で、ある意味「反対」なんだね」
「そうなんです。日本語では「手」なのに、英語では「足」なんです。どう説明しますか?」
(かなりにやけている)
そいうと、ワトソン君はお土産のお菓子をくれて、出て行った。
彼はよくお土産をくれる。一番のお気に入りは、中国で買ってきてくれたこの黄色い人形だ。

どこかでみたことのある人形だが、未だに思い出せない(青かったような・・・)。
でも、「今」思い出す必要がある情報ではない。
シャーロックも次のように言っている。
“Now that I do know it I shall do my best to forget it.”
(もうそれについて知ったから、何とか忘れるようにしよう。)
シャーロックは頭を情報が置かれている「屋根裏部屋」だと言っている。
そして、大事なことは、屋根裏部屋に漫然と情報を置いていることではなく、
適切なタイミングで適切な情報を取り出せるように「整理」されているかだ。
今、このワトソン君の問題を解くために必要な情報は、Steven Pinkerの 「前方(front)問題」だ。
次の図で、ジョンの前にいる人物は誰だろうか?(Who is in front of John?)

お分かりだろうか。
正解は1~4の全員だ。 なぜか?
それは、「基準」が変われば「前方」も変わるからだ。
・ジョン(が向いている方)を基準にすれば、ジョンの前にいるのは1の人物になる。
・横の列の先頭を基準にすれば、ジョンの前にいるのは2の人物になる。
(この場合、ジョンの背後にいる人が、ジョンの前になれるわけだ)
・縦の列(十字架が前)を基準にすれば、ジョンの前にいるのは3の人物になる。
・話し手 (speaker)を基準にすれば、ジョンの前にいるのは4の人物になる。
つまり、空間における「前後」は相対的なものであり、何を基準にするかで変わる。
もうお分かりかだろう。
何を基準にするかで、「始め」も変わる。
例えば、一歩踏み出す場合、下(地面)が基準になるため、「足」が先頭になる。
この場合、「足を出す」ことが「開始」になる。
ちなみに、『英辞郎』に "get one's feet wet"の語源が次のように書かれている。
get one's feet wet
◆【語源】海で泳ぐのを怖がる子どもに向かって、とにかく「足だけでもいいから水につけてみなさい」と助言するところから。
つまり、「下」が基準になっているから、この場合は「足」が「前」になる。
get one's feet wetは日本語でいえば「一歩、踏み出す」になるのだろう。
実際、英語でも「何かをやってみる」という意味で try one’s hand (at~)という言い方もある。
まさに「手(hand)を染める」ということだ。
前後関係は相対的なのだ。
よって、手が先にも、足が先にもなれる。

ワトソン君はいつもいい問題提起をしてくれる。
もう少し、この問題について考察を進めてみよう。
(to be continued)
ロペ問題: なぜ、「手を染める」のに、「足を洗う」のか?
仮説: 手はstartを表し、足はgoalを表す
この「ロペ問題」の考察をさらに続けていたところ、研究室にワトソン君がやってきた。
彼のフルネームは「ルネ・ワトソン」である(エマ・ワトソンではない)。
「スケロック先生、英語では逆ですよ」(少しにやけている)
「というと・・・?」
「「手を染める」を英語で調べてみたら、"get one's feet wet" と出てきました。
つまり、英語では「足(feet)を濡らす」ことが「始まり」を意味します。」 (少しドヤ顔)
「日英で、ある意味「反対」なんだね」
「そうなんです。日本語では「手」なのに、英語では「足」なんです。どう説明しますか?」
(かなりにやけている)
そいうと、ワトソン君はお土産のお菓子をくれて、出て行った。
彼はよくお土産をくれる。一番のお気に入りは、中国で買ってきてくれたこの黄色い人形だ。
どこかでみたことのある人形だが、未だに思い出せない(青かったような・・・)。
でも、「今」思い出す必要がある情報ではない。
シャーロックも次のように言っている。
“Now that I do know it I shall do my best to forget it.”
(もうそれについて知ったから、何とか忘れるようにしよう。)
シャーロックは頭を情報が置かれている「屋根裏部屋」だと言っている。
そして、大事なことは、屋根裏部屋に漫然と情報を置いていることではなく、
適切なタイミングで適切な情報を取り出せるように「整理」されているかだ。
今、このワトソン君の問題を解くために必要な情報は、Steven Pinkerの 「前方(front)問題」だ。
次の図で、ジョンの前にいる人物は誰だろうか?(Who is in front of John?)

お分かりだろうか。
正解は1~4の全員だ。 なぜか?
それは、「基準」が変われば「前方」も変わるからだ。
・ジョン(が向いている方)を基準にすれば、ジョンの前にいるのは1の人物になる。
・横の列の先頭を基準にすれば、ジョンの前にいるのは2の人物になる。
(この場合、ジョンの背後にいる人が、ジョンの前になれるわけだ)
・縦の列(十字架が前)を基準にすれば、ジョンの前にいるのは3の人物になる。
・話し手 (speaker)を基準にすれば、ジョンの前にいるのは4の人物になる。
つまり、空間における「前後」は相対的なものであり、何を基準にするかで変わる。
もうお分かりかだろう。
何を基準にするかで、「始め」も変わる。
例えば、一歩踏み出す場合、下(地面)が基準になるため、「足」が先頭になる。
この場合、「足を出す」ことが「開始」になる。
ちなみに、『英辞郎』に "get one's feet wet"の語源が次のように書かれている。
get one's feet wet
◆【語源】海で泳ぐのを怖がる子どもに向かって、とにかく「足だけでもいいから水につけてみなさい」と助言するところから。
つまり、「下」が基準になっているから、この場合は「足」が「前」になる。
get one's feet wetは日本語でいえば「一歩、踏み出す」になるのだろう。
実際、英語でも「何かをやってみる」という意味で try one’s hand (at~)という言い方もある。
まさに「手(hand)を染める」ということだ。
前後関係は相対的なのだ。
よって、手が先にも、足が先にもなれる。
ワトソン君はいつもいい問題提起をしてくれる。
もう少し、この問題について考察を進めてみよう。
(to be continued)
2019/02/21
1. Super-Japanese dictionary - the case of exaggeration-
本と映画好きだ。
ちなみに、カラアゲは好きだが、カラオケは嫌い。
暴飲はするが、ボーリングはしない。
ちなみに、社会人にとっては、次の方程式が成り立つ。
カラオケ+ボーリング+嫌い/しない= 友達ができない
それでも、一人で本を読み、映画を見続けるのには理由がある。
本と映画を「観察」し、そこから得られる知見を明らかにすることが、自分の使命だからだ
(*あくまで個人の感想です)。
というわけで、今回、取り上げる本を(勝手に)紹介しよう!

アイデア満載の本である。
さすがは、Eテレの『シャキーン』の放送作家が書いただけでのことはある。
だが、単に「面白い!」って読んでいるわけではない。
これは、『シャキーン』の放送作家との勝負であり、ここから何を考え、どんなアイデアがひらめくかが問題なのだ。
(*あくまで個人の感想です)。
“The important thing is not to stop questioning.” (Einstein)
(大事なことは疑問を持ち続けること -アインシュタイン-)
ちなみに、このようなラインナップになっている。

この目次だけでご飯10杯いけそうであるが、今回は「大げさ表現語」をとりあげよう。こんな ↓ 感じである。

(……あ、思わず見入ってしまった、面白い!)
なかなかの感性である。とくに、ツッコミの的確さがいい。
ちなみに、自分が選ぶトップ3は次の3つだ。
(テレビ番組的に3位から発表)
3.ケツの穴が小さい → 大きいほうが問題ありではないか?
2.喉から手が出る → エイリアン?
1.必死 → ほとんどの場合、死んでない。
いきなり「下ネタ」的なものがランクインであったが、ここには面白い問題がいっぱい潜んでいる。
そもそも、なぜ「大げさ」に言うのだろうか?
たとえば、「喉から手が出るほど欲しい」は「めっちゃ欲しい!」って言えば済む話である。
「めっちゃ」=「喉から手が出るほど」なわけだが、長いし、分かりづらい!
この表現を知らない子どもにとっては、こんな ↓ イメージだろう。

結局、「すごく」を「喉から口が出る」という比喩を使って表していることになる。
(「比喩」については研究中 → The study of Metaphor)
「めっちゃ」や「すごい」はある意味、「最上級」である。最上級はMAXなので、基本的にはこれ以上強めることができない。
その「ジレンマ」を埋めるのが、今回の比喩を使った「大げさ表現」の正体だといえる。
「喉から手が出る」は「めっちゃ」を越えたMAX over MAXというわけだ。
ということで、今回の仮説はこれ ↓ だ。

さらに、この本を取り上げ、考察を続けることにする。
(to be continued)
******「大げさ表現」募集 (ツッコミ付き)**********
興味があれば、「コメント」で気楽に送ってください(登録必要なし、匿名でOKなので、ペンネームでOK)
自分の作品: ・棚から牡丹餅 → 大げさ感ゼロ
本と映画好きだ。
ちなみに、カラアゲは好きだが、カラオケは嫌い。
暴飲はするが、ボーリングはしない。
ちなみに、社会人にとっては、次の方程式が成り立つ。
カラオケ+ボーリング+嫌い/しない= 友達ができない
それでも、一人で本を読み、映画を見続けるのには理由がある。
本と映画を「観察」し、そこから得られる知見を明らかにすることが、自分の使命だからだ
(*あくまで個人の感想です)。
というわけで、今回、取り上げる本を(勝手に)紹介しよう!

アイデア満載の本である。
さすがは、Eテレの『シャキーン』の放送作家が書いただけでのことはある。
だが、単に「面白い!」って読んでいるわけではない。
これは、『シャキーン』の放送作家との勝負であり、ここから何を考え、どんなアイデアがひらめくかが問題なのだ。
(*あくまで個人の感想です)。
“The important thing is not to stop questioning.” (Einstein)
(大事なことは疑問を持ち続けること -アインシュタイン-)
ちなみに、このようなラインナップになっている。

この目次だけでご飯10杯いけそうであるが、今回は「大げさ表現語」をとりあげよう。こんな ↓ 感じである。

(……あ、思わず見入ってしまった、面白い!)
なかなかの感性である。とくに、ツッコミの的確さがいい。
ちなみに、自分が選ぶトップ3は次の3つだ。
(テレビ番組的に3位から発表)
3.ケツの穴が小さい → 大きいほうが問題ありではないか?
2.喉から手が出る → エイリアン?
1.必死 → ほとんどの場合、死んでない。
いきなり「下ネタ」的なものがランクインであったが、ここには面白い問題がいっぱい潜んでいる。
そもそも、なぜ「大げさ」に言うのだろうか?
たとえば、「喉から手が出るほど欲しい」は「めっちゃ欲しい!」って言えば済む話である。
「めっちゃ」=「喉から手が出るほど」なわけだが、長いし、分かりづらい!
この表現を知らない子どもにとっては、こんな ↓ イメージだろう。
結局、「すごく」を「喉から口が出る」という比喩を使って表していることになる。
(「比喩」については研究中 → The study of Metaphor)
「めっちゃ」や「すごい」はある意味、「最上級」である。最上級はMAXなので、基本的にはこれ以上強めることができない。
その「ジレンマ」を埋めるのが、今回の比喩を使った「大げさ表現」の正体だといえる。
「喉から手が出る」は「めっちゃ」を越えたMAX over MAXというわけだ。
ということで、今回の仮説はこれ ↓ だ。
さらに、この本を取り上げ、考察を続けることにする。
(to be continued)
******「大げさ表現」募集 (ツッコミ付き)**********
興味があれば、「コメント」で気楽に送ってください(登録必要なし、匿名でOKなので、ペンネームでOK)
自分の作品: ・棚から牡丹餅 → 大げさ感ゼロ
2019/02/20
2. hand first, foot final
ロペ問題: なぜ、「手を染める」のに、「足を洗う」のか?

この問題を解くカギは「手」と「足」が何を表しているのかにある。
まず、「手始めに」という言い方があるように、手は「開始」を表すといえる。
手を付ける/手を下す = 何かを始める
これに対して、足は「終わり」を表すといえる。
たとえば、「足が出る」は予算以上の出費で赤字になることを表すが、これを言い換えれば、予算のMAX (限界点)越え=終点越えである。
その終点こそが足であり、足が出る=終点から出ることになる。
足がつく = 証拠 (すでに終わったことの痕跡)が見つかる
つまり、手はstartで足はgoalを表す。
さらに、「染める」は「色が変わる」という変化=「始まったぞ!」ということを表す比喩になっている。
(「手を汚す」ともいうし、始まりには何かと色をつけたがるのである)。
そうすると、終わりの際には「きれいに」しないといけないので、まさに「洗う」のである。
「洗う」ことは「無くなる」=「終わった」ことの比喩になっている。
つまりは、こんな感じ。

このように、空間的な位置関係を手(start)と足 (end)を使って表している。
さらに「開始」を「染める(変化)」、「終了」を「洗う(完了)」で表しているため、「手を染め、足を洗う」なのである。
しかし、これで話は終わりではない。
シャーロックは次のように言っている。
“I never guess. It is a shocking habit - destructive to the logical faculty.”
(僕は憶測でものをいわないことにしている。それはとんでもない悪習で、論理的な思考力を破壊することになる。)
次に大事なことは、今回の考察に「反例」はないかということだ。
人体で譬えるなら、「頭」や「首」がstartを表してもいいのではないか?
「首を突っ込む」・・・
また、足を使った表現でも、何かを始めるという意味を出せないのか?
「足を入れる」・・・
もう少し考察を深める必要がありそうだ。
(to be continued)
ロペ問題: なぜ、「手を染める」のに、「足を洗う」のか?
この問題を解くカギは「手」と「足」が何を表しているのかにある。
まず、「手始めに」という言い方があるように、手は「開始」を表すといえる。
手を付ける/手を下す = 何かを始める
これに対して、足は「終わり」を表すといえる。
たとえば、「足が出る」は予算以上の出費で赤字になることを表すが、これを言い換えれば、予算のMAX (限界点)越え=終点越えである。
その終点こそが足であり、足が出る=終点から出ることになる。
足がつく = 証拠 (すでに終わったことの痕跡)が見つかる
つまり、手はstartで足はgoalを表す。
さらに、「染める」は「色が変わる」という変化=「始まったぞ!」ということを表す比喩になっている。
(「手を汚す」ともいうし、始まりには何かと色をつけたがるのである)。
そうすると、終わりの際には「きれいに」しないといけないので、まさに「洗う」のである。
「洗う」ことは「無くなる」=「終わった」ことの比喩になっている。
つまりは、こんな感じ。
このように、空間的な位置関係を手(start)と足 (end)を使って表している。
さらに「開始」を「染める(変化)」、「終了」を「洗う(完了)」で表しているため、「手を染め、足を洗う」なのである。
しかし、これで話は終わりではない。
シャーロックは次のように言っている。
“I never guess. It is a shocking habit - destructive to the logical faculty.”
(僕は憶測でものをいわないことにしている。それはとんでもない悪習で、論理的な思考力を破壊することになる。)
次に大事なことは、今回の考察に「反例」はないかということだ。
人体で譬えるなら、「頭」や「首」がstartを表してもいいのではないか?
「首を突っ込む」・・・
また、足を使った表現でも、何かを始めるという意味を出せないのか?
「足を入れる」・・・
もう少し考察を深める必要がありそうだ。
(to be continued)
2019/02/19
1. Tense & Aspect
child(子ども)を悪いイメージでとらえるとchildish (子どもっぽい)となるが、
いいイメージでとらえると childlike (子どもらしい)となる。
イメージが変わるだけで、childはchildである。
今、ネイティブの英文法書だけをとりあげ、ネイティブの母語感覚をまとめたシリーズを出している。
1巻の『時制と相 (Tense & Aspect)』を執筆し刊行したが、アマゾンのレビューは星1つ(ある意味、目立つ)。
一方で、今年の4月からある大学のテキストに採用されることが決定。

酷評されようが評価されようが、『時制と相』の内容は変わらない。
周りが動いていると、自分が動いているように見える。
三味線の鶴澤寛治(人間国宝)は次のように言っている。
「浄瑠璃は富士山みたいなもんでな、見るお方によって感じ方も違うから。
絵でも、富士山を描けえ言うたら、写実に描くお方も水墨画で描かはるお方もおる。
だから、あんたはあんたの富士山を 描いたらええんや」
カッコよくまとめたが、要は「番宣(本の宣伝)」であった・・・
(書くの苦労したから、宣伝させて!)
ちなみに、「描く」と「書く」は「かく」という行為が同じでも「かくもの」が違う。
この点に関しては、また改めて取り上げることとする。
child(子ども)を悪いイメージでとらえるとchildish (子どもっぽい)となるが、
いいイメージでとらえると childlike (子どもらしい)となる。
イメージが変わるだけで、childはchildである。
今、ネイティブの英文法書だけをとりあげ、ネイティブの母語感覚をまとめたシリーズを出している。
1巻の『時制と相 (Tense & Aspect)』を執筆し刊行したが、アマゾンのレビューは星1つ(ある意味、目立つ)。
一方で、今年の4月からある大学のテキストに採用されることが決定。

酷評されようが評価されようが、『時制と相』の内容は変わらない。
周りが動いていると、自分が動いているように見える。
三味線の鶴澤寛治(人間国宝)は次のように言っている。
「浄瑠璃は富士山みたいなもんでな、見るお方によって感じ方も違うから。
絵でも、富士山を描けえ言うたら、写実に描くお方も水墨画で描かはるお方もおる。
だから、あんたはあんたの富士山を 描いたらええんや」
カッコよくまとめたが、要は「番宣(本の宣伝)」であった・・・
(書くの苦労したから、宣伝させて!)
ちなみに、「描く」と「書く」は「かく」という行為が同じでも「かくもの」が違う。
この点に関しては、また改めて取り上げることとする。
2019/02/19
どうして手を洗わないのか問題(ロペ問題)
1.Rope's Problem
何かを譬えを用いて表すことを「比喩 (metaphor)」という。
たとえば、「仲が悪い」ことを「犬猿の仲」といって、「犬」と「猿」を用いて表す。
(勝手に仲が悪いとレッテルを張られた犬と猿には、何とも迷惑な話であるが。)
この比喩は、日本語と英語で譬え方が違うことはよくある。
たとえば、上の例の「犬猿の仲」は英語ではto agree like cats and dogsという。
つまり、英語では「犬」と「猫」が仲が悪いとされる。
(どちらかというと、こっちの方がしっくりくるのは、自分だけだろうか・・・)
このように、言語間で比喩が異なるのはなぜかといういのも面白い謎である。
(「文化の違い」という「最終兵器」で片づけられそうだが・・・)
今回は日本語の比喩の謎を取り上げる。
悪いことを始めたことを「悪いことに手を染める」という。
一方、悪いことをやめることを「悪いことから足を洗う」という。
そこで、ロペ問題が起こる。

なぜ、「手を染めた」のに「足を洗う」のだろうか?
シャーロック・ホームズは、次のように言っている。
"It is a mistake to confound strangeness with mystery."
(不思議なことと、不可解なことを混同するのは誤りだ。)
「手始めに」手と足の関係から考えるのがいいだろう。
(to be continued)
1.Rope's Problem
何かを譬えを用いて表すことを「比喩 (metaphor)」という。
たとえば、「仲が悪い」ことを「犬猿の仲」といって、「犬」と「猿」を用いて表す。
(勝手に仲が悪いとレッテルを張られた犬と猿には、何とも迷惑な話であるが。)
この比喩は、日本語と英語で譬え方が違うことはよくある。
たとえば、上の例の「犬猿の仲」は英語ではto agree like cats and dogsという。
つまり、英語では「犬」と「猫」が仲が悪いとされる。
(どちらかというと、こっちの方がしっくりくるのは、自分だけだろうか・・・)
このように、言語間で比喩が異なるのはなぜかといういのも面白い謎である。
(「文化の違い」という「最終兵器」で片づけられそうだが・・・)
今回は日本語の比喩の謎を取り上げる。
悪いことを始めたことを「悪いことに手を染める」という。
一方、悪いことをやめることを「悪いことから足を洗う」という。
そこで、ロペ問題が起こる。
なぜ、「手を染めた」のに「足を洗う」のだろうか?
シャーロック・ホームズは、次のように言っている。
"It is a mistake to confound strangeness with mystery."
(不思議なことと、不可解なことを混同するのは誤りだ。)
「手始めに」手と足の関係から考えるのがいいだろう。
(to be continued)