The hound of the books & movies (Chinese Character’s book)
2019/11/14
14. Chinese Character’s book
漢字は基本的に「絵」を文字化して作る「象形文字」である。

漢字はよく使っている割に、知らないことが多い。
そのような漢字のなぞを解明しているのが、この ↓ 本である。

たとえば、なぜ音読みに複数の読みが可能なのだろうか?
・内 [ナイ/ダイ]: 社内(しゃない)/境内 (けいだい)
・団 [ダン/トン]: 団地(だんち)/布団 (ふとん)
これは、漢字が入ってきた時代と地域が異なるからである。

このように「呉音」「漢音」「唐音」の3つがあるため、音読みが複数あることになる。

つまり、漢字はあくまで中国語であるということである。
そして、音読みは中国の発音を日本語風にアレンジしたものである。

中国語の発音と日本語の発音は違うので、漢字は中国語の読みに近づけてはいるものの、あくまで日本語で発音しやすいようになっている。
これは、英語を外来語としてカタカナで表す場合にも当てはまる。

一方、漢字が表す意味と同じ意味をもつ日本語をそのまま漢字の読みにしたのが訓読みである。
漢字は基本的に「絵」を文字化して作る「象形文字」である。
漢字はよく使っている割に、知らないことが多い。
そのような漢字のなぞを解明しているのが、この ↓ 本である。
たとえば、なぜ音読みに複数の読みが可能なのだろうか?
・内 [ナイ/ダイ]: 社内(しゃない)/境内 (けいだい)
・団 [ダン/トン]: 団地(だんち)/布団 (ふとん)
これは、漢字が入ってきた時代と地域が異なるからである。

このように「呉音」「漢音」「唐音」の3つがあるため、音読みが複数あることになる。

つまり、漢字はあくまで中国語であるということである。
そして、音読みは中国の発音を日本語風にアレンジしたものである。
中国語の発音と日本語の発音は違うので、漢字は中国語の読みに近づけてはいるものの、あくまで日本語で発音しやすいようになっている。
これは、英語を外来語としてカタカナで表す場合にも当てはまる。

一方、漢字が表す意味と同じ意味をもつ日本語をそのまま漢字の読みにしたのが訓読みである。
これはよく考えるとすごい「荒業」である。
たとえていうなら、英語のleftを「ひだり」と読んでしまうようなものである。

つまり、漢字は日本語と中国語のハイブリッドなのである。
そうすると、ある意味、日本人が最初に学ぶ外国語は英語ではなく漢字といえる。
そして、漢字を追求することは、英語などの外国語の習得にも役に立つ。
なぜなら、漢字を学ぶことで日本語とは違う外国語の感覚に触れているからである。
例えば、日本語の「あし」は基本的に足全体を指すが、英語ではfootとlegの2つの語であしを分ける。
つまり、英語を習うことで「あし」を使い分けることを知ることになる。
しかし、漢字でも「足」と「脚」の区別があるため、実は漢字を習う際に同じような感覚をすでに経験していることになる。

個人的に面白いと思うのは「部首」である。
漢字の部首は「グルーピング」を行う役割がある。
たとえば、「辶 (しんにょう)」の部首をもつものは「移動」を表すグループでになり、「貝 (かいへん)」の部首をもつものは「金銭的な価値があるもの」を表すグループになる。
そのため、部首をみれば同音異義語の意味の違いも分かる。
≪「送る」と「贈る」の違い≫

部首は200以上ある。つまり、200以上のグループ分けがなされていることになる。
このように、漢字を通して日本語とは異なるグループ分けをする言語があることに気づける。
よって、今回の仮説はこれ ↓ だ。

漢字は奥深い。
改めて、取り上げることにしよう。
(to be continued)
****補足:漢字と冠詞について ****
漢字は「絵」を文字化したものであることをみたが、絵にできないようなモノはどのように漢字にしたのだろうか?
その答えは、「何かに譬える」である。
(『ことばのふしぎ なぜ?どうして?1・2年生』 より)

つまり、形がない(=絵にできない)ものを何とか形にしてから漢字にしたのである。
これは、英語の冠詞に似ている。
英語では形がはっきりしない名詞には何も冠詞がつかないが、冠詞のa をつけると形をもつものとして捉えることになる。
(冠詞については、The hound of the books & movies (Haiku, Basho) を参照)

一方、漢字はすべてのものに「形」を与えてから捉えているため、英語の冠詞のaをつけるような認識と同じといえる。
この「形」にするという漢字の感覚は、外国人の方が敏感に感じとっているようである。

漢字を深く追求すると、いろいろ英語ともつなっがてくるのである。
個人的には、ピカソの抽象的な絵も「漢字」的だと思っている。

つまり、漢字は日本語と中国語のハイブリッドなのである。
そうすると、ある意味、日本人が最初に学ぶ外国語は英語ではなく漢字といえる。
そして、漢字を追求することは、英語などの外国語の習得にも役に立つ。
なぜなら、漢字を学ぶことで日本語とは違う外国語の感覚に触れているからである。
例えば、日本語の「あし」は基本的に足全体を指すが、英語ではfootとlegの2つの語であしを分ける。
つまり、英語を習うことで「あし」を使い分けることを知ることになる。
しかし、漢字でも「足」と「脚」の区別があるため、実は漢字を習う際に同じような感覚をすでに経験していることになる。

個人的に面白いと思うのは「部首」である。
漢字の部首は「グルーピング」を行う役割がある。
たとえば、「辶 (しんにょう)」の部首をもつものは「移動」を表すグループでになり、「貝 (かいへん)」の部首をもつものは「金銭的な価値があるもの」を表すグループになる。
そのため、部首をみれば同音異義語の意味の違いも分かる。
≪「送る」と「贈る」の違い≫

部首は200以上ある。つまり、200以上のグループ分けがなされていることになる。
このように、漢字を通して日本語とは異なるグループ分けをする言語があることに気づける。
よって、今回の仮説はこれ ↓ だ。
漢字は奥深い。
改めて、取り上げることにしよう。
(to be continued)
****補足:漢字と冠詞について ****
漢字は「絵」を文字化したものであることをみたが、絵にできないようなモノはどのように漢字にしたのだろうか?
その答えは、「何かに譬える」である。
(『ことばのふしぎ なぜ?どうして?1・2年生』 より)

つまり、形がない(=絵にできない)ものを何とか形にしてから漢字にしたのである。
これは、英語の冠詞に似ている。
英語では形がはっきりしない名詞には何も冠詞がつかないが、冠詞のa をつけると形をもつものとして捉えることになる。
(冠詞については、The hound of the books & movies (Haiku, Basho) を参照)

一方、漢字はすべてのものに「形」を与えてから捉えているため、英語の冠詞のaをつけるような認識と同じといえる。
この「形」にするという漢字の感覚は、外国人の方が敏感に感じとっているようである。
漢字を深く追求すると、いろいろ英語ともつなっがてくるのである。
個人的には、ピカソの抽象的な絵も「漢字」的だと思っている。